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Harmonies ライナーノーツ

無題ドキュメント


by 福田教雄 (map / sweet dreams)


その家に女性がふたりいる。ふたりは、毎日毎晩、音を出すことに夢中で、より面白い音を出そう、より聴いたことがないような音を出そうと、ときには妙ちくりんな姿勢をとってみたり、ときには変わった創作ダンスを取り入れてみたりして、あれこれと悩んでいる。ひとりはニカさんといい、ひとりはさやさんという。若く、屈託のない歌手と音楽家であるふたりが、その家で音楽を作っている。買ってきたスイカはちょっと傷んでいて、猫の毛は抜けている。それでもふたりはカラカラと笑いながら、音を出すことに無上の喜びを感じている。

 こうして文字にしてしまうと、どこか、浮世離れした場所を想像してしまうだろう。楽しそうな光景にも見えるが、その反面、ちょっと怖いような気持ちにだってなるかもしれない。ぼくが、この作品を観ていちばん印象に残ったのは、他ならぬその家のなかのシーンだった。ふたりが揃う最初の場面で、たとえばニカさんが雨戸やサッシを揺らしたりして、まるで家自体を楽器のように鳴らしている。そのとき、ぼくの頭のなかに浮かんだのは、ふたりの小さなコロボックルか妖精か、それとも妖怪か、なにかそのような者が、どこかにぽつんと置き去りにされた見慣れない楽器のなかで暮らしている様子だった。音程を調整するために空けられている穴からは、気持ちよさそうな外の緑がまぶしく射しこんでいる。しかし、彼女たちは、その穴から外へ出ようとするでもなく、手をかけては揺らしたり、大声や小声で歌っては楽器内の響き方を案じたりして、音を出しながらそこでずっと生きているのである。

 もちろん、この作品はひとつの旅の記録ともなっていて、海外を含む、いろんな場所でのライヴ演奏の様子、お寺、車内(車と電車の両方)、ラジオの収録スタジオ、街角、自転車をぐんぐんとこぐ姿など、さまざまな景色が流れていくのだが、しかし、その家に軸足を置いて眺めていると、それら外部の世界の現実感が、まるで夢のように溶けてしまう瞬間があるのだ。そして、普通に考えたらちょっと現実離れしているように見えてしまう、その家の方に、より実在味を覚えて引き戻されてしまうのである。

 もちろん、その家にいるのは、ニカさんとさやさんのふたりだけではない。植野さんもやってくるし、一瞬、レンズのフィルターを交換する手の持ち主だって、そこにいる存在ではある。だけど、それにしても、ふたりが納まるこの家の隔絶された感じというのはなんなのだろう? かといって閉塞的な息苦しさはなく(別に監禁されているわけじゃないのだから当たり前なのだが)、ちょっと独特の気持ちよさ、幻想性みたいなものさえ、それら屋内シーンに染みこんでいるように感じるのだ。

 そして、その浮き上がったような感覚からくる「イメージ」はまた、ふたりそれぞれの音楽にも重なるのだろう。その音楽性だけでなく、たとえばステージ上の立ち居振る舞い、もしくは「ニカ・ヴォイス」というような言葉からも。としたら「ボーカルはすべてをぶちこわす」というニカさんの言葉。「伝えたいことがない」というさやさんの言葉に、ちょっと裏切られた気持ちになってしまうのだろうか。しかし、同時に「歌は自分自身であればいい」というさやさんの言葉。「ひとりで全部を片付けてしまうことは美しいことではない」というニカさんの言葉からは、ふたりのハーモニーの奥行きが感じられるはずだ。そして、その奥行きを支えるところに、あの家のなかの薄暗い実在感があるんじゃないかとぼくは勘ぐっている。さやさんが言うように、そこにこそ「原型」みたいなものがあるのだろう。あの家にふたりがいた/いることを想うとき、なにか朗らかな好ましい気持ちになるのは、そこに「原型」があるからに違いない。もちろん、それは「音楽」の原型のことである。

ニカさんは「すべてが正反対」、さやさんは「生き方が似てる」と互いのことを言う。ギターを背負って通りで信号を待っているニカさんは、なんだか厳しい顔つきになっている。ベンチに座ってタバコをくわえるさやさんは、とても美味しそうに煙を吸いこんでいる。今日も、開いた居間の戸からは、とてもきれいな緑が四角く切り取られて見えている。そして、その家に女性がふたりいる。今日も妙ちくりんな姿勢を取ったり、風変わりなダンスを踊ったりしながら音を鳴らし、歌を歌っている。ひとりはニカさんといい、ひとりはさやさんという。さらに、ふたりのうしろで植野さんもギターを弾いていて賑やかだ。若く、屈託のない歌手と音楽家であるふたりが、その家で音楽を作っている。これは、ドキュメンタリーというよりも、ひとつの詩のような作品だなと、ぼくは思う。